授業中に突如、こむらがえりが起こり、立ってられなくなりました。
いたーーーい。
最初は、「肝臓が悪いのかなぁ」などと笑っている余裕があったものの、だんだん、そうも言ってられなくなり・・・。
その日の教室はというと、当大学で一番広い講義室。壇上がかなり高く、授業というより、講演に向いている教室です。
ところが、男子学生が、次々に壇上に上がってきて、「先生、ストレッチしたほうがいいですよ」などと言いながら、足の裏を両手で押さえたり、マッサージしてくれるではありませんか。もちろん、女子学生も壇上に椅子を上げてくれて、「先生、座ったほうがいいですよ」。みんな、口々に「無理したらアカン」とか、「何かできることないかな」などと言っています。
感激しました。その親切さに。
ふだんは、ロクに授業も聞いていないような学生が、真っ先に飛んできて、親身になって応対してくれる。多面的に学生を見ないといけませんね。
いつだったか、保険の営業マンをしている友人から、こんな話を聞いたことがあります。
大学時代に、女の子とチャラチャラしてて、いい加減だったヤツに、外交員になったから話を聞いてくれと言ったら、親身になって聞いてくれた。がんばれよと、激励までしてくれた。
だけど、大学時代、いつも真面目でノートもきちんと取っていた彼に、同じように話を聞いてほしいと言ったら、迷惑そうな様子だった。話の一つも聞けないのかと残念だった。
心の幅を広げることの必要性を教えられます。
最近思うこと。それは、日本の子供は人を信用していない、それが、心の柔軟性をなくす最大の原因ではないかということです。
アジアに行くと、純粋な子供達の目にしばしば触れます。それは決して、裕福といえない、十分な教育を受けているとも思いがたい子供たち。けれど、異国人の私に微笑み、伝わらない言葉で話そうとし、お菓子をあげると、喜んで食べる屈託のない姿。
思い出されるのは、遠い日の風景。
一階建ての平屋の住宅。近くを流れる川の音。遅くまで遊んで家に帰ったときの、明るいオレンジの電気。バタバタとうちわで扇ぐ暑さ、などなど。
こんなふうに、すべてを受け入れ、大人や子供や自然と触れ合うなかから、柔軟性は生まれてくるはずなのです。
今の日本の子供達が置かれた現状を考えると、身を守るほうが優先されてしかるべきなのかもしれません。だけど、いつから、こんなになったのでしょう。流行では済まされない現状。アブナイ国、ニッポン。
キャッチアップ型からフロントランナーへ、経済大国ニッポンが、がんばって、ガンバッテ、手にしたものが、人を信じられない世の中だとしたら、何かがおかしいと思わずにはいられません。
真面目に勉強に勤しむことは大切なことです。けれど、こむらがえりになったとき、広い教室の、一番後ろに座っていても、走ってやってきてくれる、そんな若者がこれから先も増え続けることを、願ってやみません。
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まさこの今 |
教育実習に行っているゼミ生を、巡回訪問することがあります。研究授業の後、反省会が開かれますが、そのとき学校の先生方のコメントを聞いていて、疑問をもつことがあります。
こんなことがありました。研究授業も終わりに近づいたとき、遅刻してきた生徒がいました。その生徒は何も言わず、自分の席につきます。ゼミ生は授業をすることに気をとられ、その生徒への対応はありません。
反省会で。ある先生が「遅れてきた学生にちゃんと対応をしないといけない」という注意をされました。私も同感です。ところが、その先生のご意見は「どうして遅れてきたん?気分悪かったん?と言ってやることで、本人は言い訳ができるし、あっ、心配してもらってるんだ、ちゃんと見てもらってるんだという気持ちが芽生える。周囲の生徒も自分のことも見てもらっているんだという気持ちになる。だから、声をかけてフォローをしてやることが大切だ」というものです。
そうでしょうか?
それでなくても子供達は、少子化で甘やかされて育っています。そのうえ、学校までがそんな対応をしてしまったら、機嫌をとってもらうことがあたりまえの「何様」のまま大人になってしまいます。
現に、そういう大学生がいっぱいいるんです。たとえば名前を覚えてくれないという学生。特徴がないから覚えられない。それに気づかないんですね。してもらうことがあたりまえ。見てもらうことがあたりまえ。そして、就職してから少し気に食わないことがあると、辞めてしまう。それを助長しているのが、学校教育だとしたら。
今回のような場合、遅れてきたことに対しては、どのような状況であったとしても、まずは詫びて入室すること。そして、その後、伝えたいことがあるなら、授業終了後、教員に言いに来ること。非を認め、自分を省み、それを素直に表現することを促す対応が求められるような気がします。
人の心を動かすものは、いろいろあるでしょう。能力、政治力、財力。そのなかでも、最後に残るもの、それは「かわいげ」だと私は信じています。もちろんそれを醸成していくために一番大切なのは家庭です。でも学校教育も、人を一個人として尊重する感覚を養い、かわいげの素地を作り上げていくうえで、重要な位置にあるのではないでしょうか。
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