「サボることなく地道に働くと、イソップ童話でも語られている働きアリなのに、実は怠け者もいる」。そんな研究結果が、先日、新聞に載っていました。
「働きアリ」の種類に属しているにもかかわらず、その一部は、ほとんど仕事をせず、なかには全く働かないアリもいるんですって。しかも、しかも!「怠けアリ」や「働きアリ」をそれぞれ取り出して観察をしてみると、怠け者は種類に関係なく怠けたままで、ハードワーカーは働き続けるという結果だったそうです。
もし私がアリだったら、ゼッタイ働きアリだ!しかも種類は「怠けアリ」に属している働きアリ。
「キリギリス」のように奔放になれず、かといって「働きアリ」ほど天性の才能があるわけでもなく。でも、「怠けアリ」のように、思いっきり怠けることに後ろめたさもあり。ただただ、きっといいことがあると信じて、今日も明日もあさっても。あぁ、すごく不憫!涙ジョボジョボ。
そして、幼い頃、セッセと働いているアリを踏んづけたり、砂をかけたりした自分を思い出し、ごめんね。と大いに反省したのです。
ただ、人間と大いに違うところは、働きアリは、怠けアリに口移しにエサまであげるということ。
人を押しのけ、押しのけて。さぁ、僕はエリートなんだよ。そぅ、主人は立派なの。うん、パパがエライからお友だちにも自慢できちゃう!そんな浅はかな人間とは違う、なんとも大らかなゆとり。
頑張るということは本来そういった、温かな想いをもちえる豊かさがあるからこそ、初めて賞賛に値するはずのものなのです。
私は、ひたすら頑張る能力なき人かもしれません。だけど、ここまで来れたことに、来させてもらえたことに感謝して、少しでも人の役にたつ「働きアリ」でありたい。そう思いながら、今日も高い空を見上げています。
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まさこの今 |
人の役に立とうとすることは尊いものですが、あえて意識するものでもないのかもしれません。
共同研究者の某先生の、研究のしかたに学んだことがあります。それは、自分がしたいから、ひたすらそれを究めるという姿勢です。そこには「人の役に立つ」という発想より、自分の想いに突き動かされるようにして、する!という感触が強くあります。そして、その先生の研究は、いつも新規性があって、今後に影響を与えるものばかりなんです。
そういう人を目の当たりにすると、「人の役に立つ」なんて考えているうちは、ある一定の粋を出ていないんじゃないかって思わされるんですね。
結局、自分がすべてというのでしょうか。自己中心的というのではなく、訳あって自分に生まれたんだから、本能を信じて、自分を信じて、やっていく。そういう姿勢を貫くことができれば、人のため、世のため、なんていうことは、ついてきてくれるんじゃないのかって。
もちろん天才と凡才を、同じ土俵に乗せてはいけないのかもしれません。
だけど怠け者なら怠け者で、呑み助なら呑み助で(あっ、無関係でした。。)、それを十二分に認めて、怠け者でも、何かふぅーと心に湧き上がるワクワクがあれば、それをし続けていく。人の目ではなく、自分の心に重きをおいて、自分と向かい合いながらやっていく。
そういう「ねばならない」から脱却した、自分を偽らないプロセスを経ることができればと、思っています。
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