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見果てぬ夢と現実と

 
ターナーの空を見つめる ロンドン/イギリス

12月。ヒースロー空港に着いたとき、何気なく空を見上げました。低くたれこめる重い空。それはターナーの絵で見た、あの空のまんまです。

その足でターナー美術館へ。今見たばかりの空が、静寂な室内にいくつもある。不思議な気分になりました。

この空をいつも風景画のなかに取り入れたターナーは、少し陰鬱さをもちあわせた人だったのではと思っていました。低くたれこめた空は、彼の気持ちではなかったのかと。

大学生のほんの一時期。ボランティアで国立病院に入院している小学生に、英語を教えに行っていたことがあります。

ある日、彼らが描いた絵が、病室に飾られていました。そのなかで強烈に印象に残った絵があります。それは、自分の手を驚くほど、大きく長く描いたもの。手の向こうには、お母さんが描かれています。しばらく観ていて、涙が出ました。

英語を勉強したって、将来遣えるかどうか、わからない。だって、日常的に死と隣あわせで、「昨日、〇〇君、死んだんだ」そんな話を、夕べ見たテレビの続きのように話す彼ら。「手術の日まで、僕、生きられるかな?」その問いかけに、なんて返せばいいのか。手を握って、微笑むことしかできない現実。

日々、気丈に明るくふるまっていても、本当は家に帰りたくてしかたがない。甘えたい盛りで、でも甘えられなくて。思わず描いた絵は、体以上に大きい手をした自分。その手が母をつかみとろうとしている。想いを絵に託すことしかできない、その切なさ。

そんなことを思い出しながら、美術館を出る頃には、日はどっぷり暮れていました。ターナーの空はもうどこにもありません。日が暮れるのが早い冬のロンドン。その闇の深さを体感したとき、低くたれこめた空でも、そこには言いようのない明るさが潜んでいた気がしました。

ターナーは陰鬱な人ではなく、ささやかな希望をいつも持ち続けた人だったのかもしれません。束の間私が英語を教えた小学生の一人でも多く、この空のどこかで、健やかに過ごしてくれていることを、心から願っています。




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